2001年宇宙の旅


名作は星の数ほどある。

果たして何をクリアしていれば、名作なのでしょうか。


映画は芸術であって、芸術は全ての人に平等の権利を与える。

それは、時間と同じようである。


5年前の太陽が降り注ぐ真夏の日が、大事な時間だった人もいれば、幼少期、母親に抱かれていた瞬間が、こようえない愛しい時間の人もいる。

また、今日今この瞬間が人生の中で最高のクライマックスを覚えている人もいるだろうし、明日訪れる人もいるでしょう。


人は映画を観て、何を感じるのか。


何だか普遍的な事を考えていると、キューブリックが浮かんできた。


彼の映画はどれも、哲学的で、容易にメッセージを読み取る事は困難だ。


哲学とはそういうものだと思う。


わたしは彼の映画がスキ。

いつも観る度に、ちんぷんかんぷんだけど、余韻が素晴らしく良い。


確実に何か形ではない『充実度』がそこにはあるのです。


そういった意味で、「2001年宇宙の旅」はカリスマ的要素を映画界にもたらした映画といえる。

SF映画の金字塔と呼ばれているが、むしろ、新たな映画の可能性と観るものに主点を置ききった映画といえるでしょう。  



まさに傑作である!


現在において本作の評価と人気は、伝説化され、神秘的でもある。

人々が認める映画作品といえば、「市民ケーン」と「風と共に去りぬ」が上げられるが、こういった大作に匹敵するほどであるといえるだろう。


前者2作品が明快で誰でも感動し、理解できる作品である映画であるのに対し、本作を理解することは困難である。



学生時代にこの映画を友達と観たとき、終わってから「えーーーっと、つまり、あれは何? 多分こういう事だよね??」と話しながら、結論としては、「っていうか、これ想像以上に凄くない?? 」となったわけである。



恐らく当初様々な評論家から、説明を求められた彼だろうが、彼の意図するものは、説明して彼の思いを発信するのではなく、観るものがあくまで主観的に観れる映画に仕上げる事だったのではないだろうか。

意図としては、SF界の神の存在をあらわしているのでしょうが、思いを捨てて、観客に主観的な感動を味わえる作品にしたのだと、わたしは思いたい。



公開当時本作の興行収入は悪く、一番ヒットしたのが日本での4位という成績だ。

日本人はキューブリックという冠に踊らされたのか、この映画の魅力を感じ取ったのかはわからないが、

マニアックな世界観と完成されつくしたSF技術の高さは、日本人好みであると思う。


一応あらすじとしてはこうだ。

人類の夜明け、荒野に棲む猿人の群れの前に黒い石碑(モノリス)が出現し、人類への進化するきっかけとなる。


それから400万年経った2001年、月面でモノリスが発見され、調査していたフロイド博士らの前で突然、Jupiter(木星)へ電波を発信した。

探査のため木星へ向かった大型宇宙船ディスカバリー号でのコンピューターHAL9000と唯一生き残った船長ポーマン。  そして、モノリスを発見する・・・・・・・・・・。


2001年宇宙の旅  ←冒頭で重要な『人類の夜明け』を意図するシーン

                             


となるが、90%以上の人が汲み取ることはできない、いわゆる“ちんぷんかんぷん”である。


まずセリフ、説明が極端に少なく、モノリスの存在自体が謎めいている。

さらにおもしろいのが、人間よりもコンピューターHAL9000が一番人間らしい行動をとり、感情豊かな点だ。

さらに、クライマックスに登場する“トリップ”シーンの長い描写は、観るものを混乱させると共に、引き込ませる要素をもちあわせている。

そして誰もが、壮大に鳴り響くリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」が耳に残るばかりだ。



実はこの映画、脚本家のSF作家アーサー・C・クラークが公開時と同時に発表した小説版で、明快に説明されているらしいが、キューブリックは当初、おびただしく挿入されていたナレーションをすべて排除し、随所にあの謎めいた映像を配置し、イマジネーションさせることに主観をおいたのである。



この映画は観るべき映画であり、それは絵や写真のような芸術作品と似ている。


わたしの母は、絵画が好きな人で、わたしもそれなりに影響を受けているが、よく母が今でも言うのが、

「絵や写真は見ることに価値がある。 技術や巧さは素人にはわからない。でも、触れる事がもっとも大事であり、見てどう感じたか、思ったかが大事である。」と言うものだ。


まさに本作はそれに値する映画であることは、言うまでもない。


理解することだけが、芸術の楽しみ方ではないことのお手本のような映画である。



2001年宇宙の旅  圧倒されるSF技術は感動の一言に尽きる!



公開前のタイトルは「星の彼方への旅(Journey Beyond The Star)だったが、2ヶ月でタイトルを変更。

コンピューターは当初、ギリシャ神話の知恵の女神“アテネ”と名付けられ、声も女性が担当することになっていたが、後にソクラテスを経て、このHALに落ち着いた。


また、この映画の最大の見所であるのは、SF技術であるが、全てのシーンをキューブリックが考案し、徹底的にこだわりぬいたのである。


そのため、600万ドルの予算を450万ドルもオーバーし完成するも、成績はいまひとつ。

だが、次第にその高度な技術と完成度の高さ、カリスマ的人気を帯び、5年をかけて利益を産み出した映画となり、そのSF技術は今でも色褪せず、むしろどの作品よりも輝いてい見える



2007年を迎えた今、この映画のような事実は起こっていない。

時代がまだ追いついていないのか、キューブリックが先を見据えすぎていたのかは、これから判別するであろう。

マーサの幸せレシピ


またしてもハリウッドはリメイクですね~。

ってことで、本家のドイツ映画の方を見てみた。


レストラン、とりわけ厨房を舞台にしたドラマはおもしろいですよね。

スピーディーで、色鮮やかで。


美味しい食べ物が幸せをもたらすのではなく、一緒に食べる人で料理本来の温かさが感じられると思う。

わたしは“食べる”事にあまり執着していないのも、よりそこを気にしているタイプだからなのではと、最近つくづく思う。


1人で食べるご飯は、どんなに贅沢な料理でもつまらない。

気の合う仲間と映画を見ながら食べるピザは、話の肴にもなりそうなほど弾んでいて、愛する人と食べる料理は、どんなに冷めていても喉を通る瞬間に美味しいと感じる。


このドラマでのメインディッシュは、つまりはそういう事。

オチが分かるドラマだけれど、愛する事と食べることが不思議としっくりくる。


マーサはハンブルクにあるフランス料理店の女シェフ。

料理の腕前は素晴らしく、自分でも自信満々だ。

お客に料理を非難されれば、客がおかしいと罵倒し、オーナーに指摘されても従わない。

美しいマーサなのに、誰とも時間を共有せず、厨房でもピリピリした雰囲気は多々。


そんなマーサの姉が交通事故で他界し、姪のリナを引き取る事に。

ママを失った悲しさから、食べ物を口にしないリナに、どう接していいのか分からず、ただただ混乱するマーサ。

そして、厨房でも変化が起こった。

何とシェフとしてマリオというイタリア人の男が入ってきたのだ。


自分で築き上げたこの厨房に、同じシェフとしてわけのわからない男が入ってきた事はもちろん、

彼のマイペースな仕事っぷりや、音楽をかけ踊りながら料理をする姿に苛立つマーサ。


しかし厨房に連れて行ったリナがマリオのスパゲティを食べた時から、自分の中で何かが変わって行く。


セリフ中にもあるように、マーサとリナは似ている。

強がりで淋しがりやで、優しくしてもらってどう接していいのかわからないのである。


マリオは北風と太陽のお話の太陽のようだ。

子供のリナはそんな温かさにいち早く反応したんですね。


大人のロマンスドラマとしても、しっとりしていて、秋の夜長にうってつけの作品。

一生懸命なればなるほど、30代は空回りしていくもの。

少し気の抜けたスパイスを、人生の味付けにすることが、いい料理を作るコツかもしれないです。


さて。


話を冒頭に戻して、リメイクに。

マーサをキャサリン・ゼダ・ジョーンズが演じるんですよね。

このハリウッドリメイクは、ちょっと良いかも。

料理はもっとゴージャスだろうし、キャサリンの凛々しい中に女らしさが、マーサのキャラクターを愛らしくする事でしょう。






kid



喜劇王と称されるチャップリンの映画について書くのは、思えば初めてだ。

知らない人はいないチャップリンの存在。 ロンドンに映画史を学びに留学してた頃にも、チャップリンはまず挙がってくる題材でした。


彼ほど映画を語る人の中で、愛されている人物はいないだろうし、様々な事に挑戦し続けた優れた映画監督であり、映画を通してメッセージを送ることにこだわり、きちんとエンターテインメントにまで仕上げるプロデューサー力も発揮している人である。


チャップリンの凄さは、言葉で言い表せない。

まさに、映画を見ろ! と言いたくなるほど、観た方が早いであろう。


サイレント時代に、表情と動きで音を超える演技で、視界から感じ取るサウンドを見せ付ける凄さ、そして御馴染みの“放浪者”スタイルだ。 


2サイズくらい小さいんじゃ?と思うような上着に、ダボダボのかぼちゃパンツ。

上着とは反対に、5cmほども大きいんじゃ?って思う靴を履き、山高帽に、ステッキを身につけたぼろぼろスタイルなのに、ちょび髭だけはキレイに整えている、紳士のような貧困者である。


この設定が当時の資本主義を反骨するキャラクターと、チャップリンそのものを決定づけるものになる。


また彼の作品の形容詞とえいば、『滑稽』である事だろう。

決して上品ではなく、どちらかというと卑猥であるし、多々、身を引いてしまうようなシーンも登場する。

恐らく批評家たちは、多く指摘したことだろうとも思える。


chaplin



しかし卑猥であることが、下らなく、救いようがない事ともいえない、妙なバランスがチャップリンにはある。

単なるコメディアンではなく、人生の中にある喜劇を盛り込めることで、悲哀と感動を同時に表現したチャップリン。

おかしくて笑うのではなく、どうしようもない時は笑うしかないじゃん!と言っているように思える。


本作は、無声映画の彼の作品の中でかなり好みの作品だ。

子供が出ているという点は、どんな映画でも“卑怯”に可愛らしさや涙を誘うものであるが、チャップリン自体が子供のような“おつむ”なので、大人と子供のお涙頂戴映画というよりは、時に同化したり、時に自分の中に潜む責任感ややり切れなさを痛感するように見えるのだから、おもしろい。


有名なラケットシーンは、あの「おかしな2人」にも使用された演出だし、やはり忘れてはならない早送りの演出は、この作品でも絶妙だ。  朝起きるシーンが最高におかしい!!



喜劇は悲劇の中に産まれ存在する。

これは人生そのものだと思っている。

人は、いえ動物は、悲劇の中に喜びを残そうとするのではないだろうか。


人生は誰が何と言おうと「死」に向かっているのである。

だから生きて行く事自体が、悲劇であるのかもしれない。

だからこそ、その中で喜びを作り出せるのが人生である。

しかし哀しみも常に喜びの中に存在しているのだ。

チャップリンの映画は、この事も痛恨させられる。

現実の中にある喜びを満たしていけばいくほど、「見える」事が最大になり、人は残酷な選択をしてしまうこともある。


このことで特筆すべきは、チャップリンの妄想シーンである。

彼の作品にはいつも、チャップリン演じるキャラクターが妄想する(設定が貧乏なので妄想が多い)シーンが出現する。


「見える」事への恐れから逃げているかのようにも思える。


しかし、この映画の中の妄想シーンだけは、かなり謎である。

ユナイテッド93


2001年9月11日

誰しもがTVに釘付けで、完全大国アメリカの悲惨な姿を目にしたことでしょう。

そして、その翌年同月日、わたしはN.Y.にいた。


N.Y.が好きだから。

そして、もちろんこの事件の影響で旅費が安かったのもある。

1人で行ったN.Y.。わたしの初体験のN.Y.はこの日だった。


友人達からは、「辞めときなよ。今でなくても・・・・。」という声が頻繁にあがった。

でも、行きたかった。

私自身あまりそういうのに踊らされない性格ってのもあるけど、神戸の震災を体験したわたしはどうしても行きたかったのである。


上手くいえないけど、1つの大きな出来事で、人々が必死に前向きになっている姿がわたしは好きだ。

こういうと、とても失礼で非礼かもしれないけれど、そこに存在するエネルギーが必ずあることを私は知っている。


悲しみの中から生まれる優しさは、どれよりも強く気高い。

そして人は、自分で思うよりも優しい人間であることを知る。


この映画はご存知の通り、ハイジャックされた4機のうち、唯一テロリストが目的を達成できなかった機体だ。

離陸から、ハイジャックされ、あの墜落までを、残された資料、証言、遺族の発言から制作された、ドキュメンタリー映画である。


制作するにあたり、ほとんどの遺族から了承を得たという事に、まず何より感服する。

とてもセンシティブなこの事件を、映画制作するあたりに、アメリカの映画への追及と、映画がもつ力、

この事件の人々の思いが受け取れるのではないでしょうか。


カメラは安定せず、見ている私たちはいつしか観客になっている。

そして、私たちは忘れるのだ。

この飛行機は無事にテロリストから守れるんじゃないかと。

頑張れ!と必死で願う気持ちになり、エンディングを迎えたときに、これがあのユナイテッド93だったと思い知らされる。


これらの臨場感と緊張感は、映画の意図を忘れ、いつもの映画の感覚を引き起こす。


全ての言動が寸分違わないかどうかは、分からない。

どこかが脚色されているのかもしれない。


だがこの映画は紛れもない傑作であり、映画史どころか、アメリカ史に深く刻まれる作品であることは間違いない。


そこに芽生える願う気持ちと優しさを、1人でも多くの人にメッセージとして発信してほしい作品だ。


そして、目的地であった“ホワイトハウス”が、この多くの犠牲者により守られたことを、アメリカ政治はどう考えているのかもこの映画は強く語りかけている。




スーパーマン


アメリカコミックヒーローの王道は、やはり、スーパーマンでしょう。


多分私たち日本人では分からないけれど、いろんな思い入れが幼少期にあったりする人が多いだろうし、

当初映画化される時なんかは、きっと、あーだ、こーだ。と難癖あったんじゃないかな。って思う。


日本に置き換えてみると、ガンダムが実写化される。となると、きっと、アムロがどうとか、こんな振る舞いはしないでしょ。とか出てくると思う。


スーパーマンは、日本ではガンダムみたいな、伝説的なヒーローものだと言える。


さて本作は、70年代~80年代に公開されていたあの「スーパーマンシリーズ」の、続編とされている。

これは、リメイクに近いが、あくまで“続編”であるため、確実的に、パート1と2を鑑賞してから観る事が必須だ。


旧スーパーマンについては、コチラを参照してね♪


何故なら、スーパーマンが姿を消して5年がたった。という設定を基盤に、全てが説明ナシに展開されるのだ。


クラーク・ケントが何故スーパーマンなのか。 クラーク・ケントの生い立ちは? スーパーマンの星って?

彼がクラーク・ケントとスーパーマン両方で愛した女性の、同僚の記者ロイスの性格も、彼の弱点も。

全ては、周知されているとうい条件で、進められていくのであるからだ。


スーパーマンが5年ぶりに地球へ戻ってくると、犯罪は以前よりも多発し、ありとあらゆる所で連発している。

人々はヒーローよりも、自己中心的な考え方が先行し、事故や事件は日常茶飯事である。


そして何より、変わるはずがないと思っていたロイスまでもが、新しい恋人がいて、子供までをも持つ母親になっていた。


失望と孤独感を感じる、スーパーマンはそれでもやはり人々を救おうと奮闘する。

世間は帰ってきたスーパーマンを取り上げ、追い続ける。


そして、かつて倒した宿敵レックスが釈放され、再びスーパーマンを狙う。



感想は、ずばり泣ける!!!!


でもこれも、前途したように、観ている者であることが必須条件である。


この続編は、スーパーマンを愛している人へ、スーパーマンの映画を観ていた人へ、スーパーマンという映画を作った人へ、そして、スーパーマンを演じた故クリストファー・リーヴへの愛に包まれた映画だからだ。


本作の展開の見所がどうとか、そんな時限の話ではないのが、この映画の最大の見所であり、長所かもしれない。


まず、やはりスーパーマンを演じるブランドン・ラウスが逸材だ。

彼は、アメリカ、カナダ、オーストラリアの中からオーディションで選ばれた新人だが、まさにクリストファー・リーヴのスーパーマンの印象そのままである。


スーパーマン



選考基準も恐らくそこを一番重要視したに違いない。


それから、ロイスを演じたケイト・ボスワースも、勝気で聡明だが、人間的な魅力をもつロイスの印象そのままの演技をしている。

前作のロイスよりも、ケイト・ボスワースは可愛いのだが、イメージはそのままだし、むしろ母になっている。

という設定から、その柔らかい感じも出せていて、プラスに働いてる。


余談だが、おしゃれセレブで話題のケイトだが、ダークヘアな堅物キャラが意外と似合うのではないだろうか。


お馴染みの編集長も、頑固だが以外とどん臭いところがあるオチャメなキャラクターそのままだし、

レックスを演じたケビン・スペイシーもなかなか頑張ってる。


それになにより、あの世界観をそのままにしながら、最新技術で細部を丁寧に創り上げた背景が素晴らしい。

編集部が入っているビルの、モダンな雰囲気はゴージャス感とリアル感を増しながらも、モダンな雰囲気はそのままだ。


スーパーマンとロイスが出会う屋上シーンは、往年のスーパーマンファンには感涙してしまうほどの、

美しさがある。

スーパーマン  ←ヒーローに愛する苦渋はつきものだ。


わたしは、スーパーマンを見て思い出したのが、アニメのヤッターマンだ。

悪が悪すぎずに、ちょっとコミカルで、ドジだったりするじゃない?


相棒(この場合、パープー女ね)が、情にほだされたりして、結果的にスーパーマンに加担するようになるのよね。 悪の王レックスも残虐っていうよりは、勝ちにこだわる悪だから、気軽に観れるのが良さだと思う。



この映画の良さは、みんなでそういった、旧スーパーマンに対する愛があるからこそ、期待を裏切らない仕上がりになった要因でしょう。


単独で映画を判断するのではなく、シリーズとして、スーパーマンファンに対しての敬意を持ち、かつてのアメリカの良さを、ストレートに表し、ひねりを加えた映画に対して、真っ向勝負で挑んだ姿勢は、スーパーマンのように、地から強く気持ちがよい。


Hard Candy


『甘い愛には罠があるのよ。  ~  笑いかけて誘い出してキミの心はSugarless Girl』


これは、私の大好きなCapsuleの「SUGARELSS GIRL」の歌詞だ。


まさに、その通り! と言った感じでしょうかね、この映画の感想としては。


サンダンス映画祭で、かなり話題を集めた作品で、観たい!! と、強く思っていました。

この映画のキャッチコピーは、赤ずきんちゃんが、狼を退治する! となっていますが、赤ずきんちゃんの物語って、いろんなエピソードがありますよね。


すごい、悲劇的な結末や、残酷な展開ものまで。


わたしは詳しく知らないので、よく分かりませんが、どんな物語にもいろんなパターンがあり、1つの行動が、いろんな結末を辿るのは、人生のようであると思います。



監督は、日本の援助交際にヒントを得て、この作品を創り上げたという事ですので、いわゆる、女の子がおやじを刈る。という物語になっているかと思ったら、女の子がおっさんを騙し、近づき、こらしめようとする展開。



オープニングは、チャットシーンから始まる。

32歳のカメラマンジェフは、14歳の少女とチャットしている。

もちろん、卑猥なネタ満載だ。


会おうという誘いに、乗ってきた少女の名はヘイリー。

コーヒーショップで対面したヘイリーは、大人びていてながら、少女のあどけなさを残す女の子だった。


早速ヘイリーを家に誘いこむ事に成功するが、カクテルを飲んだ彼は意識を失い、目が醒めると、椅子に縛られている。

ヘイリーの仕掛けた罠であり、彼女はジェフに失踪したドナについて、自白させる。

知らないと言い張るジェフに、ヘイリーは、タマを切り落とす準備をし始める。



なかなか評価が高かった作品だけに、期待して観たせいか、イマイチ感情移入できなかった。


かなりスリリングな密室サスペンスで、よく出来てはいるが、どうも腑に落ちない点がいっぱい出てくる。

まず、ヘイリーは何者???  これが一番分からないので、観ている方は、ヘイリーの味方をすべきなのか、ジェフの主張を信じていいのか、疑うべきなのかに迷う。


それから、ヘイリーとの駆け引きも、やや甘い。

どうして、ヘイリーはアレを実行しなかったのだろう。   分からん・・・・・。

復讐と化しているなら、実行しても良かったんじゃないかなぁ。


ヘイリーの目的がよく分からないのである。

復讐しているのか、単なるゲームとして遊んでいる悪魔なのか。

そして、その目的が映画のメッセージとして記されていないのがこの映画の課題とすべきところである。


とはいえ、低予算ながらまったくそう感じさせない完成度は、非常に高い。

また、「お前は誰だ?」とジェフに聞かれ、「あなたが欲情した全ての少女よ。」というセリフは、かなり衝撃的である。


また賛美に値するのは、やはり赤ずきんちゃんを演じた、エレン・ペイジの魅力だろう。

あどけなさと、危うさ。 大人びた行動で挑発しながらも、無邪気な笑顔とのギャップ。

彼女の存在感ナシに、この映画を語れないであろう。


「X-MEN PARTⅢ」でメジャー作品にも進出した19歳に、今後注目である。


Hard Candy  ←本作とは全く違う可愛らしさ。


公式サイトに書いてありますが、“Hard Candy”とは、いわゆるキャンディーと、勃起したペニスを表すそうです。

ビッチ達が舐めることからだそうです。


また、ヘロインの俗語でもあるそうで、やはり、甘いものには、罠があるのですよ。うんうん。


公式サイトでのGAMEもおもしろい! コチラ


わたしは、「マゾマゾ」だった。

当たってる!





嫌われ松子の一生


友達に「これちょっと早く観てよぉー。感想聞かせて。」と言われ続け、言われ続け、機会があったので観てみた。

どおやら彼曰く、この松子の一生になるんじゃないの? >>わたし!! 

という見解らしい(笑)。


えっとー、こんなに不幸な目に遭っていませんよ!

むしろ、いろいろ周りには恵まれてるし。

でも、彼が言わんとする事がちょっと分かった気がした。


そう!

松子はずーーーーっと、どんなに周りから見て“不幸”であっても、夢見る事を捨てなかったのである。

いわゆる、夢みる夢子ちゃん。

おおいに結構! いいじゃないですかー、夢みることって。

周囲から見れば、呆れるような事が起こっても、本人の思うように生きればいい。

周りに迷惑かけずに、自分が幸せになる。って、もしかしたらとても難しい事なのかもしれない。

でも、やっぱり人ってそうやって懸命になれるのが、素敵な事なんだと思う。


松子の人生は、本当に最悪かもしれない。

どうみたって、いつもいつも、暴力ばっかりふるわれたり、邪険に扱ってばかりの男とばっかり付き合って、散々だ。


決して、彼女はそれでも幸せだったんじゃないかなぁ。とは思えないけれど、人間らしさに溢れた松子のキャラクターは、人一倍愛らしい。


人間って、正解ばかりで生きていけない生き物だと思う。

間違ってるって分かってるのに、そっちに進んでしまうし、こっちが正しい。って事を頭では分かりつつも、反対の方に惹かれてしまったりする、どうしようもない矛盾な生き物だ。


この「嫌われ松子の一生」の松子は、そんなどうしようもない、人間の馬鹿げていて、どうしようもないくだらない選択ばかりしてしまう私たちが凝縮されている気がする。

だから、私たちは松子を切なく、愛しいと感じるのではないだろうか。


松子は計算高い女ではない。 いつも素直に、目の前にある事に一生懸命に全身全霊を注ぐ。

こざかしい悪知恵や、したたかさなどはなく、自分の好きな人が幸せでいてほしい。

そして、自分に出来ることをやる。

ただそれだけなのだ。


嫌われ松子の一生



ありとあらゆる賞を総ナメした、中谷美紀の演技は、上手いというか、圧巻だ。


あのポーズ(例の)はもちろん、様々な男にいたぶられる松子の哀しさと、妹への嫉妬、両親に対するいつまでも幼子のような不安や、愛情に飢えた切なさ、身体全体で感じる喜び、希望を捨てない強さなど、表面的な仕草だけでなく、かなり念密に松子を創り上げたというのが、滲み出ている。


確実にこの映画で、女優として一皮剥けたと思う。


豪華キャストや、演出の工夫は言うまでもないが、やはりこの作品が成功したのは、中谷美紀の存在感による処が大きい。


TV版の「嫌われ松子の一生」は、散々だ(主演:内山理名)


劇中、松子の親友であるめぐみが、ヤクザと付き合い、どうしようもない松子に、必死で目を覚まさせようとするシーンがある。

そして松子は言う「あなたには関係ない。 わたしはこの人となら地の果てまでも堕ちていけるんだから!!」


めぐみは後で松子の甥に「この時の松子はあまりにキレイで、何も私は言えなかった。」と。

その時セリフ通りに、その時の松子=中谷美紀は、この映画の中で一番綺麗だと、私も思った。



松子の人生は、転落そのものだ。

悲惨すぎて、自分だったら・・・・・・。と考えるとおぞましいし、自分の友達にいたら呆れるのかもしれない。

こんなストーリーを、人生のエンターテインメントにしてしまった、中島哲也監督は、「下妻物語」に続いて、評価を上げただろう。


作品としての好みは分かれるとは思うが、監督としての力量は証明できた。

日本のフランソワ・オゾンのような存在になりつつある気がする監督だ。


女は女である


やっかいな映画だなぁ~。と、まずは思った。


やっかいとは、ネガティブなイメージで繋がるが、

あるカップルの痴話喧嘩1つを下敷きに、コミカルでいて、センス良い演出でくだらない事も、とある1日の出来事として、見せてしまえるゴダールの発想力の豊かさは、どこにあるんだろう。


内容は1組のカップルの、単なる『痴話喧嘩』


アンジェラ(アンナ・カリーナ)とエミール(ジャン・クロード・ブリアリ)は同棲中のカップル。

アンジェラは突然「子供がほしい!! どうしても24時間以内に子供が欲しい!!」と言い出す。

男は「え!!!??? 子供は結婚してからでいいじゃないか。」となだめる。

「じゃぁ、結婚しましょ!!」となる。

「おいおいおい・・・・・・・・・・・・」の繰り返し。


ここに、エミールの親友(ジャン・ポール・ベルモンド)が巻き込まれる。


どうしても子供が欲しい! と言ってきかないアンジェラ。

と、呆れながら、うざったいと言い放つエミール。


たったこれだけのテーマに、男と女の倦怠期と、可愛らしさが同居する喧嘩が始まるのだ。


こんなのを映画にしてしまうゴダールは、フランスそのものだと思ってしまう。

軽快で、ハイセンスなペーストが散りばめられた台詞。

文句のつけようがないほど、退屈でキュートな仕上がりだ。



               女は女である


例えば印象的なのが、食事のやりとり。

根底にこの喧嘩があったカップルはこういった感じだ。

「今日はお肉と魚どっちが食べたい?」

「魚かな。」

「残念ね、お肉なの。  羊と牛とどっちがいい?」

「羊の気分だな。」

「残念ね、牛なの。 ミディアムとレアどっちで焼いててほしい?」

「レアかな。」

「ウェルダンなのよ」


と言った具合だ。

どこをどうとっても、くだらないやりとりのようだが、全てが完成された台詞だと思う。

苛立っている2人がよく出てる。

わたしは、こんな台詞で男女の様子を描き出すゴダールを尊敬してやまない。


さて。

この映画で、というか、ゴダールを語る上で欠かせないのが、もちろんアンナ・カリーナの存在だ。

ゴダールの永遠のミューズであり続けたアンナ・カリーナ。

もちろん、公私共にパートナーだった時代の作品で、最も2人の仲が幸福だった時代に作られている。


だからなのか、この映画に漂うムードは、喧嘩しているカップルにも関わらずHappyそのものである。



アンナ・カリーナの魅力は、まさに、ゴダールの作品で輝き、ゴダールに成功をもたらしたといえる。

ゴダールの作品の魅力は、永遠のフランスの今である点だ。

ヘビーな事だって、笑い飛ばすかのような軽快さに、アンナ・カリーナのコケティッシュな魅力はピッタリ。


この映画の彼女は、タータンチェックのスカート姿や、トレンチコート。

おさげ髪にフリルのネグリジェ姿や、赤い丸首カーディガンをボタンを全部閉めてのニット姿。

赤いタイツや、セーラー服まで、大人のキュートさ満点で、それだけでも、見る価値はある。

どんな雑誌を見るよりも、オシャレの参考になるから、驚きである。


女は女である    

ブルーのアイシャドーをつけた上目遣いの「お願い~☆」の可愛らしさは、不二子ちゃんのような子悪魔的な魅力が全開で、ほんとにカワイイ!!



このブログの一番最初の記事に書いたように、わたしの理想の女の子はアンナ・カリーナである。

キッチュで、小生意気でワガママでおしゃれで泣き虫でオシャレ。

彼女は永遠に、女の子でいてくれる。


余談ですが、わたしの理想の男はアンナ・カリーナをカワイイ。と思うような人である。

「全く女って・・・・・・。」と、惑わすワガママ娘を時に見守り、時に対等に怒り、許してしまうような男性。

女はいつも女でありたいものだわ。


ゴダールの映画を久々に見直したくなった。










涙そうそう


血の繋がりがない兄妹の、深い愛情の物語。

『血の繋がりがない』 と言えば、この世代の人ならば、名作漫画「みゆき」を連想させる。


いつも思うのだが、どうしてこういう設定は、妹がおちゃめで可愛くて、兄の恋人はお嬢様系でおしとやか。

という設定になるのだろう。


同じキャラでもいいもんだ。

と、思ってみるものの、やはり対比させる事で、“揺れる心”が表現できるのかもしれないのかしら。


この映画の発端(?)は、森山良子の曲「涙そうそう」であるのは有名な話である。

森山良子がライブで共演したBIGINと意気投合し、沖縄の曲を依頼。


送られてきたデモテープに、「涙そうそう」とは沖縄の言葉で「涙がぼろぼろこぼれ落ちる」と書いてあったため、

森山良子が、若くしてこの世をさった兄を想う歌詞をつけて、誕生したそうです。



まさに、その通り“涙そうそう”になること、必至です。


この映画の功績は、主演の妻夫木聡と、長澤まさみの素晴らしさがまず光る。


兄を演じた妻夫木は、純粋でまっすぐで、全てに懸命な青年を。

妹の長澤は、明るく兄を慕う心と想う気持ちを、透明感溢れる好演を見せている。


特に長澤の「にーにぃー!」は、すごくカワイイ。

声が広末涼子と似ているが、確かな演技力で確実に広末と一線を超えるアイドルなのは間違いない。


涙そうそう ←とってもカワイイ長澤まさみちゃんの「にぃーにぃー!!」



前半は、沖縄の色彩豊かな背景を舞台に、躍動する2人の兄弟と周囲の微笑ましさを。

後半は、兄を妹を想う気持ちが溢れ出す感情に、ただただ、切ない気持ちで胸がつまる。


この映画で描いているのは、一言に言えば“互いを思いやる兄妹愛”なのかもしれないが、

わたしは、“他人を思いやる心”だと思う。


兄は妹を思っている。 妹も兄を思っている。

ただ、兄は妹だけを思っているのか? 妹は兄だけが幸せになってほしい。と思っているのか?


きっと違う。

だから、心が表れ涙が止まらないのだ。

友達を思い、彼女を思い、お世話になっている人を思う。

この兄妹にはこういった気持ちがある。


自分建ちだけが、もしくは、自分が一番大事に思う人だけが、良かったらそれでいい。という気持ちはないのだ。

これが、この映画の根底にあると思う。


誰かを思いやる気持ち。


涙そうそう  ←やってみた人多いでしょ?



それにしても、「みゆき」のような展開にならなくて良かった。

2人は血が繋がっていない事を知っているけれど、恋人にはならない。

兄妹とも違うような、微妙な感情が芽生えるが、恋愛にはならない。


この選択が私はとても好きである。

これは私は思うことで、そう信じているんだけれど、いろんな形の愛がこの世には存在すると思う。

家族愛、兄弟愛、師弟愛、友を思う愛、恋人を思う愛、動物を思う愛、植物を思う愛、世界を思う愛  etc.・・・・・。


これはこの2人だけに存在する愛だと思う。


例えば私にはすごく大事な幼なじみ君がいます。

彼とは、もちろん恋愛の愛ではないけれど、友達を思う愛ともちょっと違う。


家族の一員のようですが、事実家族ではないので、家族愛とも呼べない。

呼び名はない愛の形がそこにあると思っています。



「思いやり」


わたしは生まれたとき、親に「思いやりのある子になってね。」との願いをもらっている。

とても難しいけれど、自分が信じる「思いやり」は間違えないように、今後も生きていきたい。


と、この映画を観て改めて感じました。


うぅぅぅーーーー、“涙そうそう”だよ、ほんと。

ノッティングヒルの恋人


ヒュー・グラントは、ちょっとは変わった個性を持った俳優だと思っている。


というのも、彼は確実に2枚目なのだ。


80年代、イギリス貴公子映画が流行した時代の筆頭格で、わたしたち女性陣はキャーキャー騒いでたもの。

とはいえわたしは、あまりキレイな感じが得意ではないので、どうにも腑に落ちなかったけれども、それでも、やはり同じように、上流社会を背景にしたイギリス映画を観ていた。


もっぱら女友達同士の映画会話といえば、何てキレイな顔なんだろうねー。とか、

あの仕草はイギリス人だからこそよねー。 などと話ししていたものです。


時は流れ、90年代に入ると、現代社会を背景にした映画が主流になってきた。

当時一世を風靡した彼等は、きっと試行錯誤して、役者生命を見直したのではないかと思う。

すごく苦悩した時代があっただろうし、自分のカラーを払拭するためにどうしたものかと、思い悩んだに違いない。


今やコメディーをさらりとやってのけてしまうキャラになった、ヒュー・グラント。

「フォーウェディング(1994)」で、その才能を光らせ、本作で、愛嬌あるダメ男の誠実版。みたいなキャラを確立させ、今や彼の代名詞にまでなっている。



同じようなイギリス俳優としては、コリン・ファースや、ルパート・エベレットが挙げられると思うが、2人とも、

コメディーが似合う、ちょっとお間抜けなキャラを演じれるようになっているから、不思議である。


この作品はあまりにも有名で、ストーリーを紹介するまでもないと思う。

ノッティングヒルに小さな書店を構えるウィリアム(ヒュー・グラント)と、ハリウッドを代表する映画スター女優

アナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)が、偶然、ノッティングヒルで出会い、惹かれあう。


ところが、映画スター故のトラブルと、価値観の違いが2人を邪魔する。


この映画の良さは、ヒュー・グラント演じるウィリアムと彼の友人の暖かい人間性にある。

友達のために懸命に彼女を探してあげたり、協力してくれたり、励ましあう。


特に、ウィリアムの人の良さはピカイチだ。

お人よしで、決して自分の自我を出さず、心優しい。

その優しさが裏目に出ることもしばしば。

「強引」という単語が全く似合わない男である。


ウィリアムを見ていると、友人のK氏に似てるなぁ。と思った。

彼も人一倍お人よしで、優しさを間違える男である(笑)。


その強引を勇気として出せたときに、幸せを掴むのかもしれないな、人って。

と、思ってしまった。


あと、この映画で好きな台詞がある。

「僕はノッティングヒルに住んでいて、君はビバリーヒルズに住んでいる。」

ただ韻を踏んでいるだけ。といえばそうだが、価値観の違いに戸惑う状況の中でのこのウィリアムの台詞は、どんな説明よりも、簡潔で分かりやすい。


それから、これはわたしの趣味の問題になってしまうのだが、どうも、昔からジュリア・ロバーツを好きにはなれない。


特に、女優だったり、物静かな才女など、品を感じさせるキャラクターを演じる彼女を観るのに抵抗を感じる。


やはり彼女はL.A.そのものである気がしてならず、「エリン・ブロコビッチ」のような、がっつき系のある女性像がしっくりきてしまう。



ロンドンに留学していた頃、このノッティングヒルをよく歩いたものです。

すごくいろんなモノが、よいバランスで混在していて、なかなかユニークな街だと思う。

ウィリアムの書店辺りは庶民的ですが、すぐ近くには高級住宅街が立ち並ぶ。


果物屋が異様にカラフルで、お気に入りのキャンディーショップを見つけて、よく通ったものです。


ノッティングヒルの恋人  ←ウィリアムの本屋



さてこの作品には、結構意外な俳優さんがカメオ出演しています。

アナの新作発表にいた子役は、今をときめくファッションアイコンアイドル、ミーシャ・バートン。

ハリウッドからアナを追ってきた元彼は、アレック・ボールドウィン。


と、まーここまで見つける事が出来るのですが、マシュー・モーディンやサイモン・カロウも出ているとの事。

う~~ん、発見出来ず・・・・・・・・・。